釣島サポーター

今年も行ってきました、釣島灯台

http://d.hatena.ne.jp/purinnohaha/20130706/1373116064

小学生は官舎の中の掃除、市の職員や文化財サポーターの人たちは草刈り

そして私達一般のサポーターは今年は窓の格子のペンキ塗りでした。

去年塗った手すりはまだ乾いてないうちに雨に濡れちゃったのでブツブツと跡が・・・

今年はカンカン照りにもならず、雨も降らずで、最高のボランティア日和でした。  



 明治6年1873年)に竣工。釣島灯台に付帯して建てられた灯台職員用の宿舎・倉庫である。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントン。彼は明治元年(1868年)、イギリスより来日した「御雇外人教師」のひとりである。
 釣島は松山市の西約5kmの海上に浮かぶ周囲約2,6km、標高152mの涙形をした小さな島である。灯台はこの島の北西、海抜60mの斜面中原に位置し、みかんとびわ畑に囲まれて建っている。
 眼下の釣島海峡は、大陸方面から神戸・大阪方向に向かう船にとって、来島海峡をはじめ多くの島々が点在する瀬戸内海の難所の西側入り口にあたる。釣島灯台は大型船舶がひっきりなしに通う海上に、毎日日没から日の出まで白と赤交互の閃光を放ち続ける。
 官舎は花崗岩組積造、寄棟造桟瓦葺平屋建。小屋組は木造のクィーンポスト・トラス、梁行き約11m余りを陸梁で飛ばしており、内部には構造壁がない。中央に廊下を配し、両側に居室を設ける。内装は床が総檜張りの上に茣蓙敷き、壁は漆喰仕上げ、幅木・開口部まわりの額縁・羽目板等の化粧木部はすべてペンキの木目塗りとなっている。四隅の部屋には暖炉が置かれ、屋根には4本の煙突が突き出る。
 明治6年、初点灯時の灯台長はお雇い外国人。室内には解体調査時に発見された壁下張りの文書から、ベッドや洗面台等洋式の家具・調度が置かれていたことがわかった。ただし、屋根は当初は片流れであったが、後世、寄棟造に変更、和小屋に改造されたようである。台所(当初は庖厨と呼ばれる)、倉庫、浴室、洋・和式便所が置かれる。

 昭和30年代に入り灯台の機械化が進むと、離島や遠隔地にある灯台無人化されるようになり、各地の灯台の官舎は居住施設としての機能を失い、その多くが撤去もしくは機械室・倉庫等へ転用されたが、釣島灯台官舎は、無人となった昭和38年(1963年)から手つかずのまま遊休施設となっていた。
 現在、日本各地に立つ灯台は3,300か所にのぼる。そのうち明治時代に建設されたもので現役は67か所あるという。釣島灯台は建設年代順で9番目となるが、明治初期の官舎が後世の大きな改造もなく現地で当初の姿を保っているのはここ釣島灯台のみである。
 これらの灯台の建築物は明治期に建てられたいわゆる洋風建築と違い、純然たる洋式建築である。当時の洋風建築は文字通り外観のデザインから従来の日本の建築技術の中に取り入られていったものである。これに対して、釣島灯台をはじめ、明治初期の灯台建築は、灯台の管理・運営を含めた「灯台の技術」の一部として輸入されたものである。灯台の建築は、『灯台』という極めて特殊で重要な機能と厳しい立地条件のもとで、一般の建築にはほとんど影響を与えることなく存在し続けてきた。
 建物の見所は、クィーンポスト・トラスの小屋組、内部の木目塗り、多く残る輸入ガラス等、挙げたらきりがないが、建物を背に、木柵に寄りかかりながら見る真っ赤に染まった瀬戸内海の夕景もまた最高である。


こんな時でもないと官舎の中はなかなか見学できません。

また来年も参加したいなぁ

3回目はもうちょっと綺麗に塗れるようになってるハズ