駅からウォーク
台風ですね、被害がなければいいのですが
日曜日はJRの駅から歩いて観光ボランティアガイドの人に
説明を受けながら文化財などをめぐるイベント、駅からウォークでした
〜村上海賊の史跡と古建築の残る三津の旅〜
まずはJR三津浜駅前に集合!・・・のはずが
伊予鉄(私鉄)の三津駅に行っちゃった
駅に誰もいないから間違いにやっと気付いた
『村上海賊の塚(墓)』
この辺りは慶長5年、松前城主加藤嘉明が全軍を連れて関ヶ原の戦いに出陣した留守を狙い、約3500の毛利・村上・河野の連合軍が松前城を攻めるために陣を張ったところを、加藤嘉明の重臣佃十成率いる250騎が夜間に急襲し、油断していた毛利連合軍が大敗を喫した「刈屋畑(刈屋口)の戦い」の古戦場跡である。
この地域に古くからある家々には、刈屋畑の戦いから400年経った今日も、その時に亡くなった人々の霊を弔う墓・塚・祠などが一つ以上は必ずあると言われている。
家の庭先や畑の中に塚やお墓がありました。
『儀光寺』
儀光寺は松山市古三津1丁目にある真言宗豊山派の寺院。天平年間(729-749)、儀光上人が由利島の寺床(大由利の西側山腹の平坦地)に十一面観音像を安置して草庵を結んだのが寺の始まりであるといい、弘安年間(1278-1288)の地震・津波によって、島民は島を離れ、苅屋(三津の神田町・住吉町)・新苅屋(高浜)に移住、寺を現在地に再興したと伝えられている。
『三津厳島神社』
神社の起源は約1500年前に築紫宗像の神(天照大神の三女神)をお迎えしたのに始まる。後に社殿を建て、安芸宮島の厳島神社の神を勧請してお祀りしていたが、慶長5年に起きた「刈屋畑の戦い」の戦火により社殿は焼失。その後、加藤嘉明が松山に移ってから、神社を現在の地に移し社殿を再建した。以後、参勤交代のとき、海路の安全祈願を行ったと伝えられている。
ちょうどお宮参りの記念撮影をしていました。
『定秀寺』
『蔵町通り』
商人の蔵が残っている通り
『医者町通り』
開業医の建物が多い通り
ちょうど改装工事中だったこの病院は大正末期のものです。
この辺りは空襲の被害がなくて江戸時代や明治の建物がたくさん残っています。
『辻井戸』
『江戸時代の町家』
『大原其戎碑』
『三津浜港』
明治の初めに秋山兄弟や正岡子規が旅立ったのも、夏目漱石が松山に赴任して降り立ったのもこの港である。
『石崎汽船ビル』
『明治の町家』
私が一番楽しみにしていた『三津の渡し』
向こう岸まで80メートル、2分の船旅
ここは市道の一部なので船頭さんは市の職員
定員13人で自転車も載せられます。
独身の頃この近くで働いてたんだけど乗ったことなかったんだよね
『洗心庵』
最後に予定には入ってなかったけど『河野通春公お堂』
もらった資料には歩く距離4キロってなってるんだけど
このイベントいいな!また参加しよう(^o^)v
でもちょっと嫌なことが・・・
おっちゃんがお寺の説明が書いてある看板を写真に撮ろうとして
ふつうお寺の木を折ったりする?
(面と向かっては注意できないよね)
帰りは私鉄の港山駅から郊外電車で
そういえば、半世紀ぶりに女性車掌を採用したとニュースで言ってたなぁ
(写すこと了承とってないからちっちゃくね)
帰りにまたお堀の白鳥のヒナを見に行きました。
2週間前に5羽のヒナがかえったのに
2羽死んでしまって3羽だけになってしまいました。
前に見た時よりもずいぶん大きくなって、泳ぎもしっかりしていました。
元気に育って欲しい
(全部で15000歩超えました)